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2015年1月14日水曜日

表現の自由は無制限の権利ではない

自称、憲法の専門家で、改憲をライフワークとする法学部卒の安倍首相はその名前を知りませんでしたが、故・芦部先生は、憲法学を学ぼうとする入門者が、まず最初に覚える名前でしょう。日本でのこの分野におけるネームバリューでいえば、経済学におけるアダム・スミスやケインズと同じといっても過言ではないと思います。
その芦部憲法学の核となるのが、「二重の基準論」です。
憲法で保障される人権には優劣があるというもので、より重要な人権侵害の裁判については、裁判所は、違憲になりやすい厳格な審査基準を採用して判決をすべきというものです。
竹中、橋下、江田などの新自由主義者(リバタリアン)の右翼が重視する所有権や営業の自由といった経済的自由権は、信教の自由などの精神的自由権に劣後します。
精神的自由権が重視されるのは、その代表的権利である表現の自由が、民主主義の大前提として必須だからです。
国民は権力に影響を受けない自由な表現によって、正確な知識を知ることができます。権力によって都合よく書き換えられた知識しか得られなければ、形式的に選挙制度があっても民主主義は機能しません。経済的な自由などのその他の権利の侵害は、この表現の自由が守られる限り、後で、選挙で修正できます。

理屈からいえば、こうなのですが、実際は、上手く機能していません。
表現の自由という「錦の御旗」の下、マスメディアはやりたい放題で国民を洗脳することが可能になっています。メディアリテラシーの欠ける群衆のメディアコントロールです。先進資本主義国の右傾化はこれが原因です。
マスメディアを支配するのはその株主でありスポンサーでもある資本家です。結局、世襲資本主義とその支配下にある大マスメディアによって、理想とされる民主主義が世襲民主主義に歪められています。
アメリカは次の選挙もヒラリー・クリントンと、子ブッシュの弟が争うようですが、オバマを除けばこの20年間、2つの家系の独占に近い状態です。それ以前ならケネディ家などもそうでしょう。
日本でも麻生、鳩山、安倍など絶対王政の頃と変わらない世襲民主主義が続いています。今の内閣は、昔と違い、東大卒や官僚上がりのエリートがほとんどいなくなり、情報処理能力に疑問のある世襲のボンボンばかりで構成されています。
親と同じ選挙区では、出馬できないなどの規制を儲けないことにはこれは是正されないでしょう。
民主主義を採用していない中国などのほうが、完全な実力主義です。定年制を導入しているのも権力の腐敗に歯止めをかけていると思います。

表現の自由が、重視されるのはそれが民主主義にとって欠かせないものだからです。逆をいえば、どのような表現の自由でも尊重されるわけではありません。表現の自由のうち、特権扱いされるのは、政治的表現の自由です。
精神的自由権のうち信教の自由などの内心の自由は他人に迷惑を賭けないので絶対無制約です。
しかし、表現の自由は、信教の自由などの他の精神的自由と違って、外部への表示ですから他人に迷惑をかけることもあります。芸術もいくら本人が芸術だと主観で信じていても、他人に迷惑をかけるようなものは制限されるのは仕方ありません。壁にスプレーで絵を描くグラフィティなどがそうでしょう。
ろくでなし子氏が、性器を3Dスキャナーで撮影して配布されて逮捕されましたが、このような性表現の自由も、それほど尊重されるべきものではありません。それに嫌悪感を持つ人もいるからです。

政治的表現の自由とそれ以外の表現の自由はそのボーダラインの線引きが難しいから一律に保護すべきという主張もありますが、それほど線引きが難しいとは思えません。
わいせつか否か名誉毀損かいなかなどは、真偽などの絶対基準ではなく、倫理感によって常識と経験則で一定の線引きができます。
逆に、すべての表現の自由をごっちゃにすることは、政治的表現の自由の価値を希薄化させてしまい、かえって保護を弱めることになります。

今回のフランスの新聞社幹部銃殺事件の後のフランスのデモ行進には違和感があります。
反イスラムのプロパガンダを煽動しているように感じます。
しかし、殺人といった究極の暴力を肯定することはできません。
たとえ出版社の表現が暴力的表現の自由(侮辱、名誉毀損、信教の自由の侵害)だったとしても、それに過剰防衛の「殺人」という暴力でやり返すのはやり過ぎです。それでは、ホッブズのいう「「万人の万人に対する闘争」になってしまいます。また、「目には目を歯には歯を」のハムラビ法典にも反しています。
しかし、デモ行進でのテーマが、「暴力反対」ではなく、「表現の自由を守れ」とか言って、フランスの出版者の行為を肯定化するのはおかしいでしょう。
政治家や役人を風刺して中傷するのは、政治的表現の自由で当然に尊重されるべきですが、宗教の教祖や預言者、神を風刺するのは、政治とは関係ありません。
それは多くの信徒の絶対無制限の内心の自由を犯す行為で正当化はできません。
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