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2014年11月21日金曜日

ウクライナの歴史、いまさら?

■■■第1章:「ハザール王国」と「キエフ・ロシア国」とウクライナ人

■■古くから様々な民族が興亡を繰り返したウクライナ地域

●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。
1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日本から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日本人にはあまりなじみのない国といえよう。
しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは非常に重要である。なぜなら、そこはハザール王国のあった地域と重なっているからである。そして、ロシアでのユダヤ人迫害(ポグロム)は、このウクライナ人の存在がかなり重要な要素になっているのだ。

●なお、「ウクライナ」という言葉は、もともと「辺境」という意味で、これが国名にも民族名にもなっている。ロシア人が勝手に名付けたもので、日本語で言えば「田舎者」ということになる。この言葉が象徴するように、ウクライナ地域の歴史はウクライナ人とロシア人とユダヤ人のケンカの歴史である。


●ウクライナ人は、ロシア人、ベラルーシ人と同じく「東スラブ族」に属している。ウクライナの歴史は古く、紀元5世紀前後に東スラブ族が黒海北方沿岸地域に住み着いた頃までさかのぼる。これ以前この地域は諸民族が入り乱れ、興亡を繰り返していた。
紀元前8~7世紀の黒海北岸地域はギリシア人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマートなどの騎馬民族国家が興亡した。2世紀には東ゴート族が侵入し、古代ローマ時代末期にはフン族が東から西へ通過していった。

●6世紀頃、ドン川、ボルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。のちにこのハザール王国は、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。
9世紀頃には、都市キエフを中心に、現在のロシアのルーツとされる「キエフ・ロシア国」(キエフ・ルーシ)が成立。その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。現在にまで至る「ロシア」の名はこれに由来している。
 

10世紀初頭のハザール王国
 
●このキエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇った。
なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジミール公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側からロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国は、キエフ・ロシア国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けてしまう。
 
■■ロシア帝国の台頭

●12~13世紀頃に、キエフ・ロシア国は内紛とステップ地域の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、「キプチャク汗国」が成立。(「タタールのくびき」の始まり)。
これ以降、この地域の北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心になって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト海沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの支配下に入り、16世紀にはポーランドの支配下に入った。

●そして、この頃から、ウクライナ南部に逃亡農奴を中心にした「ウクライナ・コサック集団」(自治国家)が形成され、勢力を誇るようになる。これが直接的なウクライナ国家の起源とされる。
しかし、コサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド=リトアニア連合王国や、さらにロシア帝国、オスマン・トルコ帝国に挟まれ、長くは続かなかった。彼らの領土は、ロシア帝国とポーランドによって東西分割され、ポーランドが滅亡すると、ガリチア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となってしまうのであった。
※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。

●19世紀の民族運動の発展において、ウクライナ地域では、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。そして、ウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族運動が起きるようになるが、ロシア帝国下では、ウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化が図られた。
しかし、ウクライナ人への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。また一方で、ウクライナ人は、ハザール王国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識したのであった。
※ このウクライナ人によるユダヤ人迫害については、後で詳しく触れていきます。
 
 

お後は、このウェブで4章まであるようで、ご興味あればご覧のほど!
 
■■■第2章:ロシア帝国における反ユダヤ政策の実態


■■ロシア皇帝が相次いで実施した反ユダヤ政策

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