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2014年5月26日月曜日

裏ヌッ本話

私は約30年間を首都圏で暮らしました。その間、毎年のように京都に遊びに来て、名所と呼ばれる寺院や庭園を訪れ、ついでにその周辺を当てども無く歩くのが好きでした。比叡山にも二度、京都側からケーブルカーとロープウェーを乗り継いで登りました。その頃は延暦寺は京都のお寺だとずーっと思い込んでいました。

 六年前に大津に住むようになって、延暦寺は本当は大津市にあるのだと知って驚きました。比叡山に登るには大津市の坂本からケーブルカーに乗って登るルートもあります。そしてこの終点の駅であるケーブル延暦寺駅の側(そば)の標高800メートル位の所に第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)何と「桜花」の発射基地があったという事を知り、二度驚きました。

「桜花(おうか)」というのは特攻兵器として開発された人間爆弾の事です。これがそれまでの零戦などの戦闘機を転用した特攻兵器と根本的に違うのは、着陸するための車輪が無いという事です。勿論脱出する為のパラシュート等もありません。要するに爆弾に翼とロケットエンジン又はジェットエンジンを付け、人間が操縦して敵艦に体当たりをするという代物(しろもの)です。

 沖縄を失い、いよいよ本土決戦というところまで追い込まれた当時の日本人にとっては、大阪湾や伊勢湾に攻めてくるアメリカの軍艦を沈める為には標高800メートルの比叡山からカタパルト(=射出機 滑走路を使わずに離陸する為の装置)によって発射され、プロペラ機よりはるかに高速のジェットエンジンで体当たりするというアイディアに、光明を見出したのでしょうか?

 生還の可能性を全く考えない飛行体を設計した技術者は、いったいどんな心境で設計図を引いたのだろうか?比叡山に基地を構想した人物は、ケーブルカーがすでにそこにあり、建設資材を運搬するのに好都合だと気付き、比叡山を候補地に推薦したに違いない。ましてや、目の前の空間は眼下800メートルまで広々と拡がる琵琶湖に面しているのだから、これ以上の立地条件はないと満足し、着眼点の良さを自慢さえしたかもしれない。
 
 日本の宗教界で最高の権威と伝統を誇る延暦寺の高僧たちは、特攻の基地に付いて何か言わなかったのだろうか?特攻隊員に選ばれた若者たちは何を考えただろうか?敵弾に当たって死ぬのも、自ら敵艦に体当たりして死ぬのも同じ死、どうせ死ぬのなら大きな戦果に掛けようと、自らを追い込んだのかも知れない。そして、これらの奇怪(きっかい)な思考から生み出された構想が現実のものとなり、基地が完成したのは皮肉なことに1945年8月15日だったと知り、私はまた驚いたのです。(大津市歴史博物館に写真などわずかな資料が残っています。)

 基地に関係した人々は、どんな思いでこの日の正午の玉音放送を聞いたのだろうか?その時代を生きた人々の想いを想像してみる事は出来るが、戦時下のその時代の空気を70年後の今を生きる私たちが感じる事は不可能な事で、それは戦時下に生きた人達にしか感じる事が出来なかった重たい空気なのだ。



 さて、以下の文章は2ページ位前に投稿した1552番(3月22日)の続きです。



【慰安婦制度の構図】


 1860年の長崎において日本国の慰安婦制度の原初の形態が出現した経緯は前回述べた通りですが、この時の規模は原初と呼ぶにふさわしく、ごく小規模で約100名のロシア水兵を相手にする慰安婦10数名というものでしたが、小規模であるが故に、その構図は逆に解明し易い。
 
 明治以後の日本国の海外での戦争は日清戦争に始まり、その後、軍隊の規模と戦場が拡大するにつれて、軍隊と共に存在した慰安婦制度も、その規模や形態が、その時々の状況に応じて変化していくのですが、基本的な構図は同じなのです。



 まず、話の大前提として「男は常に女を必要とする」というごく当たり前の事実があります。次に必要な需要には必ず供給が行われるという経済原則が働きます。そして、軍隊の管理者の立場にあるものは兵力の低下を恐れるために兵士の健康管理を重視し、それは逆に、兵士と関係する慰安婦の性病管理をするという事でもあるので、少なくともその分野については軍隊がその管理を主体的に行う、という構図が常にあるのです。

 更に言及しておくべきは何十万、何百万の兵士に一体何万人、何十万人の慰安婦が必要とされたのか?という事です。これは例えば、衣料品の業界が軍隊の発注する軍服、冬季の外套や毛布などの特需に沸きたった様に、この業界(売春宿を兼ねる飲食店の経営者、女衒(ぜげん 人身売買の仲介業者)や売春婦)にとって正に特需だったのです。

 平時において、軍隊が自国内の駐留地に存在する限り、兵士は定期的に与えられる休暇に各家庭に帰るなり、歓楽街に繰り出すなりして、その欲求を満たす事が出来るので、特に軍隊に従属する様な慰安婦の存在は必要ではありません。しかし、軍隊が外国に駐留した場合や、戦争で外国領に侵入した場合においては、万延元年のロシア軍艦ポサドニク号艦長ビリーリョフが直面したのと同じ問題、すなわち①現地人とのトラブルを避ける事が統治する為や現地政府との交渉を滞りなく行う為に必要であり、その為に②兵士が現地女性に対して不用意に性的衝動を起こさないように厳格に兵士を管理する事が③性病の感染を防ぐ為にも必要であり、④相手となる女性の性病管理を軍が行う必要から慰安婦制度が生まれたと、前回の文(1552番)で述べました。

 そして、慰安婦制度は次の様な過程を経て実現されます。その基本となる構図を見てみると、まず㋑軍隊からの要求がある。(先の①~④の理由で)㋺その要求は行政当局に伝えられる。さらに㋩行政当局は業者(売春宿の経営者等)に㊁慰安婦となる女性を募集させ、慰安所となる建物の建設と運営を行わせる。(この場合、行政が業者に金を出す場合もあるだろうし、金は出さずにその様な事を行う権利ないし便宜を与える等、状況によってさまざまなグラデーション(段階)があると考えられます。さらに、重要な要素である㋭検黴(けんばい 性病の管理)は軍のコントロール下にある医者(軍医など)に行わせました。

 ここで一つの仮説が立ちます。『慰安婦制度は軍隊から行政当局への要求(通知、要請、指示、命令など)があってから、実現の為の動きが始まる。』ここで言う行政当局とは自国の行政当局の場合もあれば、外国の行政当局の場合もあります。万延元年の長崎の事例ではロシア軍が外国の行政当局(長崎奉行)に要請する事から始まりました。昭和十年代の朝鮮半島における慰安婦募集の事例は、日本の軍当局から日本の行政組織である朝鮮総督府に要請があった事から始まります。そして、これを特需の発現と嗅ぎ分ける業者は当然のことながら、行政当局が言いだす前から、役所に問い合わせをするという様な事はごく普通に有ったのです。




【敗戦国の慰安婦募集】


 さて、ここで時代は一気に飛んで、万延元年から85年後の昭和20年(1945)9月2日です。東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズリー号の甲板で降伏文書調印式が行われ、日本は敗戦国としての困難な時代を迎えました。それ以前の8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日の玉音放送によって日本国民は敗戦を知り、厳しい戦後の現実に立ち向かわなければならなくなりました。そして、なんと玉音放送の三日後の8月18日には、内務省が各府県の県知事や警察本部長に慰安婦募集の指示を出しています。この辺りの経緯を半藤一利(はんどう かずとし)の「昭和史 戦後編」平凡社 の15ページから引用してみます。


(引用はじめ)

 ・・・・内務省が中心となり、連合軍の本土進駐を迎えるにあたって十八日に打ち出した策に出ています。戦時、「負けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾(めかけ)になるんだ。覚悟しておけ」と盛んにいわれた悪宣伝を日本のトップが本気にしていたのか、いわゆる「良家の子女」たちになにごとが起こるかわからないというので、その“防波堤”として、迎えた進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」をつくろうということになりました。そして早速、特殊慰安施設協会(RAA)がつくられ、すぐ「慰安婦募集」です。いいですか、終戦の三日後ですよ。

 「営業に必要なる婦女子は、芸妓・公私娼妓・女給・酌婦・常習密売淫犯らを優先的に之を充足するものとす」

 そういうプロの人たちを中心に集めたということです。内務省の橋本政美警保局長が十八日、各府県の長官(当時は県知事を長官といいました)に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと指示を与え、その命令を受けた警察署長は八方手を尽くして、「国家のために売春を斡旋してくれ」と頼み回ったというのです。・・・・

(引用おわり)



 ここでは天皇の玉音放送で敗戦を知ってわずか三日後の8月18日に内務省の中枢から各府県の知事や警察本部長あてに占領軍(当時は進駐軍と呼ばれていた)向けの慰安施設を作る為に慌(あわ)ただしく指令が出されたと述べられています。

 まるで、人体に侵入した黴菌(ばいきん)に身体中の免疫機能が素早く反応して防疫体制を構築するように、各府県のトップに出された指令が末端の警察官(行政官)に至るまですぐさま伝わり、アメリカ軍が進駐する予定日までに特殊慰安施設の開業を目指して走り出す様子は見事というほかなく、驚嘆してしまいます。


 滋賀県と大津市の場合を見てみると、(大津には9月30日に第一陣が進駐し、本格的には10月4日、5日に進駐しました)9月10日付けで県進駐軍連絡事務所が設けられ、特別施設係(占領軍の宿舎、慰安施設等の建設担当)、庶務係(通訳を含む)、物質係、設営係、連絡係等が新設されました。また、市民に対して「連合軍進駐地付近住民の心得帳」を配布して、特に婦女子の服装に注意を喚起しています。大津市内には日本軍の施設がたくさん在ったこともあり3000名のアメリカ兵が駐留しました。それは、昭和26年(1951)の講和条約締結後も続き、完全に基地が返還されたのは昭和33年の事でした。

 
 この辺の状況を知るために「新修 大津市史 6」の275ページから一部を引用してみます。


 (引用はじめ)

 占領軍将兵の慰安施設も、駐留地に課せられた問題であった。二十年十月五日、滋賀県商工経済会では琵琶湖観光協会を発足させ、その経営で、大津市小唐崎町に、将兵相手に土産品、記念品を売る物産委託販売所を開店している。アメリカ兵に人気の品は、近江八景入りのハンカチであった。その後、十月二十五日には、占領軍への観光サービスを行う滋賀県物産販売株式会社に発展した。また、十月六日(引用者注:10月5日に進駐が完了した)には、大津市内40カ所で、将兵相手の特殊飲食店・ビヤホールも県の営業許可をうけて開店し、尾花川の紅葉館別館に琵琶湖ダンスホールも開設の運びとなった。特殊飲食店・ビヤホールには「美女特攻隊」と呼ばれる酌婦がおかれた。その総数は130名で、うち数十名が将兵相手の売春要員とされたという。県旅館飲食業統制組合では、早く九月十一日頃から、「憂国ノ女性集リ来レ」「三食共美食」「収入多大」との新聞広告を出し、占領軍将兵相手の酌婦を募集していた、特殊飲食業の総売り上げは、開店以来40日間で40万円を超えたという。(引用者注:当時の物価 白米10キロ=6円 ハガキ=5銭)

 (中 略)

 昭和二十七年四月の講和条約(の発効)で、アメリカ軍の「占領」は終わったが、安保条約により、アメリカ軍は三十二年まで大津に駐留しつづけた。進駐以来、キャンプ大津に隣接する三井寺下一帯は、「三井寺下租界地」といわれ、アメリカ軍相手のバーやレストランが栄え、GI(引用者注:下士官以下のアメリカ兵の愛称または時に卑称)の袖を引くパンパン(街娼)が多かった。娼婦たちは最盛期には千人を数えたといい、三十一年でも、街娼68人、レストラン従業員兼売春婦106人、特定のGIがいるオンリー164人の計338人いたという。山上(やまがみ)から大門(だいもん)にかけて、彼女らは間借り生活をしていたが、部屋代は平均四畳半で月額四、五千円という高い相場(引用者注:昭和31年の国家公務員の初任給は8千円)であり、付近の農家(引用者注:貸家をしている農家)をうるおしていた。敗戦と占領軍進駐がもたらした、戦後大津の特異な風俗であった。

 (引用おわり)



 一言でいうなら、餓死者が出るほどの厳しい食糧難の時代に勝者(アメリカ兵 お金を持っている)に、なびいた人たちは特需で潤ったという話である。8月15日に玉音放送を聞いた日本人のほとんどは悲しさと、悔しさで涙を流したと思う。それは偽りではなく本物の涙だった。しかし、アメリカ軍が進駐するまでの2~3週間の間に、昨日まで鬼畜米英と叫んでいた人が、御主人様アメリカという態度にすっかり変心してしまったのだ。それは恐らくアメリカという勝者の最前面に立たざるを得なかった人々(政治家、外交官、役人など)、困難な時代の最先端に運命的に立たされた人々(慰安婦など)から始まり、その周囲の人たちも徐々に同調していくという形で、ほとんどの日本人がアメリカという勝者を受け入れて行ったのだろう。

 内務省の中枢にいた役人が各府県のトップに占領軍のための慰安施設を準備せよと指令を出した問題。このことを何と卑屈で恥ずかしく、情けない態度だと非難するか、それとも厳しい現実を受け止めた役人の冷静な判断で、社会混乱を出来るだけ少なくするための現実に即した止むを得ない選択だったと考えるか、重たい気持にさせられる問題です。


 ところで、「敗戦国の慰安婦制度」を先に立てた仮説(軍隊が行政当局に要求することからすべてが始まる)を当てはめてみるとどうなるだろうか?この場合は軍隊とはアメリカ軍であり、行政当局とは当然日本政府のことです。(あるいはアメリカ軍当局とアメリカ行政当局の間で協議があり、アメリカの行政当局から指示された日本政府の可能性もある)ポツダム宣言を受諾する交渉の過程で、中立国を通して日本の外交当局とアメリカの外交当局が非公式の交渉の中で、慰安施設の問題が話し合われたのだと想像します。あるいはアメリカ側から言い出す前に御用聞きの様に、へりくだった態度で、慰安施設の問題を日本側が言い置いただけなのかも知れません。いずれにせよ、慰安施設の問題が何らかの形で取り上げられたに違いないと考えています。外交官同士は極めてクールに、事務的にこの問題に言及したのでしょう。


 (つづく)

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