ページ

2014年5月23日金曜日

資本主義の末路

あなたは今、逃れようのない資本主義の世界で生きている。資本主義とは、分かりやすく言うと「金こそすべて」の世界であり、いろいろなものが金に換算されていく。

多くの人が気付いていないのは、実は人間すらも資本主義社会の中では「商品」なのだということだ。

あなたも、商品なのだ。

たとえば、今の先進国社会の中では多くの若者が大学に行く。しかし、大学には何のために行くのか、その意味を正確に把握している人はいない。

大学に行くのは、自分の「商品価値」を高めるためだ。勉強して人間性を向上させるためではない。

資本主義社会の総本山である企業は、人間を採用する際、どのような人間を選ぶのかの基準が必要だ。それで、学歴を見て、その人間の価値がどれくらいのものなのかを知る。

これは、私たちが商品のスペックを見て、どれかを選ぶのとまったく同じ発想である。


歯車という部品化と、不良品という状態


学歴も、スキルも、保有する資格も、資本主義社会では「商品価値」を示すものであり、人間という商品のスペックを計るものなのだ。

サラリーマンは自分のことを「企業の歯車」であると自嘲することがよくある。

この歯車というのは、自分が企業に役立つために買われた「歯車という商品」と言う現状を浮き彫りにしている。

歯車に人格はいらない。

歯車は会社が右と言えば右に回り、会社が左と言えば左に回るだけだ。これは、すなわち人間そのものが歯車という「商品」として企業に買われて、はめ込まれて使われているということを指している。

歯車になりたくないと叫んで、会社が右と言っているのに左に回っていたら「壊れている」と即、排除される。それは「不良品」だと呼ばれるのである。

学校で勉強しない人間は「不良」と言われる。不良品と不良はよく似た言い回しだ。もちろん、これは偶然ではない。

人間も資本主義社会の中では商品になっていると考えれば、この2つは同じものを指しているのも同様なのである。

学校の不良も、商品の不良品も、規格に合っていないという意味だ。それは、資本主義社会の役に立たない。だから、排除されるのだ。

会社は壊れている「不良品」を排除しても、別に困らない。なぜか。規格品は山のようにあるので、次はきちんとした規格品を買えば良いだけだからだ。

「代わりはいくらでもいる」というのは、人間そのものが商品化されているので、いくらでも「規格品を買える」という意味であることに気付く。

「歯車」は言われたとおりに動いて、壊れたら取り替えられる存在だ。


それは、「商品化」されたという意味である


森の樹木は、その一本一本が生命である。

しかし、資本主義社会では、その樹木を切り倒して規定の長さに切って、削って、規格品化する。そうやって規格化された樹木は、もう生命体ではない。それは「木材」である。

樹木が木材になったというのは、資本主義社会に組み込まれたということであり、それは「商品化」されたという意味なのである。

人間も同じだ。子供たち、若者たちの一人一人は個性があって、みんな違う才能、違う哲学を持っている。

しかし、資本主義社会では、その人間を学校で規格化された教育をして、平均化して、同質化して、規格化する。

そうやって社会に送り出されると、みんなどこか似通った人間になっていく。そして、規格化された人間は「人材」と言われるのである。

企業にとって、人間とは人材のことだ。材木と同じで、取り替えがいくらでも可能であり、「人材市場」でいくらでも規格に合ったものを買うことができる。

こういった「規格品」を買って使うには金が必要だが、その人件費のことを企業は「コスト」と呼ぶ。

コストとは費用のことだが、企業の中には社員を人材とも呼ばずに、コストと呼ぶことも珍しくない。もう人間は、人材ですらもなく、単なる費用にされてしまっているのである。

人間=人材=費用(コスト)

言葉の変遷を見ても、どんどん「使い捨て」感が出てきていることが分かるはずだ。

規格化されると「木材」として商品になるのが樹木だ。


「壊れたら新しい商品を買う」という発想


私たちは誰もが資本主義社会の中で生きているので、この人間の商品化から逃れるのは非常に難しい。あなたも、間違いなく資本主義の世の中で「商品化」されている。

結婚するときも、「愛している」だけでは駄目で、どこの大学を出たのか、どこの企業に勤めているのか、年収はいくらなのか、外見はどうなのかというスペック(商品価値)が重要になってくる。

そうやって人間を比較して選ぶ。要するに、結婚もまたショッピングと同じになった。好きだから一緒になるという単純なものではなくなったのだ。

離婚や再婚が簡単なものになったのも、人間が商品化されているからで、「壊れたら新しい商品を買う」というのと同じ発想になっているからだ。

あなたは商品化されるし、あなた自身もまた他人を商品として見ることもある。それは、資本主義の世界で生きている限りはどうしようもないことなのかもしれない。

自分がどんな運命を辿るのかは、現在社会の中で、「商品」がどのように扱われているのかを見ればだいたい予測できる。

現在は、ひとつの商品を修理しながら大切に使う時代ではない。商品は使い捨てだ。つまり、あなたも人材として使い捨てにされる可能性がある。

現在は、安ければ安いほどいいという風潮で、みんな100円ショップで買う。つまり、あなたの仕事も安い給料の人間に取って代わられるということだ。

あなたが商品を選ぶようにあなたは選ばれ、あなたが商品を使い捨てにするようにあなた自身も使い捨てにされる。商品の扱いが、そっくりそのまま人間の扱いになる。

人間も商品として扱われているのだから、それは当然のことなのである。


商品は壊れたら使い捨てだ。顧みられることは絶対にない。 

0 件のコメント: