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2012年12月6日木曜日

日本の近代 2


■日本で平民が政権を獲ったことは一度もない

話は明治維新に戻ります。政権交代後のセオリーとして、権力を握った新勢力は、人物から社会システムまで、旧来の悪弊を徹底的に叩き悪口を言います。ところが、旧勢力が使っていたシステムを徹底的に破壊することはしません。支配の為に好都合な旧来の仕組みは残しておき、巧く利用するのが常套手段です。

先ず、旧勢力のやり方を徹底的に叩いたことについてですが、その痕跡は、私達が受けた教育にはっきりと残されています。日本史の教科書には、徳川幕府が倒されて文明が開化した、と言うようなステレオタイプの記述があります。

それまでの武家社会が崩壊し、平民が代表される議会制度が作られ、その代表者は平民による投票で決る。或いは、優秀な人材であれば、身分に関係なく取り立てられ、官僚として国を動かす仕事が出来る。封建制度から、そうしたフェアな制度に世の中の仕組みを変えた。また、鎖国対策を行っていた暗黒時代の日本を、新しい近代国家に変えた、と。

しかし、それは分かり易く巧妙に加工された嘘というものです。実は現代においても同じなのですが、日本では平民が政権を獲ったことは一度もなく、平民が選ぶ平民の代表者は武家階級か、或いはその階級から取り立てられ、階級の仲間入りを果たした人物に限られていたからです。

例えば、平民宰相と言われた原 敬にしても、生れは盛岡藩の藩士で、家は家老職を務めた上級士族です。原 敬は分家して平民籍に入るのですが、それだけの理由で一般市民と同じ平民という括(くく)りで語るのは無理があるというものです。原 敬にしても、藩閥に接する機会を得ることで外務省に入省し、政治家としての足掛かりにしているのです。

明治政府が優秀な人材を適材適所で取り立てたということにしても、それは専(もっぱ)ら人口の1%にも満たない下級士族のことを指していました。平民を積極的に登用するなどということは、薩長の権力者の念頭にはなかったはずでしょう。

仮に、戊辰戦争で幕府軍が勝ったとしても、日本に文明開化はやって来たはずです。仮に、明治、大正、昭和、平成の時代へと徳川幕府が存続していたとしても、日本人の性格から諸外国を参考にして憲法が制定され、資本主義が根付き、議会制度が制定され、婦人参政権も確立されていたはずです。

このように考えると、明治維新が革命と呼べるような性格のものではなかったことがはっきりします。



■不平不満を収める常套手段

次に、支配の為の統治システムを残した、という点についてです。

例えば明治政府は、官僚制を残しました。私達の多くは、明治政府が官僚制を作ったかのような印象を植え付けられていますが、それは全く誤った認識です。律令制を起源とする日本の官僚制は、6世紀末の飛鳥時代から存在していました。つまり、明治維新からの官僚制については、薩長の新勢力がその装いのみを改め、存続させた支配システムであると言うことが出来ます。

同様に、天皇を中心とした統治権力も、明治政府は残しています。これは、当然のことかも知れません。天皇による統治こそ、日本を丸く治める歴史的に確立したシステムだからです。天皇制の存続については、第2次世界大戦後、GHQがやはり同じことをしました。もちろん、天皇を尊重したからではなく、日本人を従順な子羊としておくには、天皇制を残すことが最良の道という支配者としての判断が働いたからです。

もちろん、薩長の討幕軍は、天皇のお墨付きを象徴する「錦の御旗」を掲げて幕府軍の戦意を喪失させたわけですから、天皇はその新政権樹立構想に初めから組み込まれた存在だったということでしょう。

しかし、このように明治維新の成果として、開国をした、廃藩置県を行って大名を廃した、国会を開催して議会制民主主義を生んだ、色々と並べ立てることは出来るでしょう。しかし、たとえ徳川幕府が続いていたとしても、幕府は同じような改革を成し遂げたことでしょう。たとえ明治以降も幕府がまだ政権を握っていたとしても、民主主義に移行していた可能性は高いし、婦人参政権は確立されていたはずです。

幾ら徳川幕府と言えども、馬鹿ではないのです。逆に太平洋戦争は避けられたかも知れません。明治政府になろうがなるまいが、日本は近代化したのです。世界の趨勢(すうせい)がそうなっていく以上、それに歩調を合わせていかざるを得ないのが、社会の自立的な発展というものだからです。

明治維新が仮に革命と呼べるものであるとしたら、江戸時代の権力者は皆殺しにあっていて当然です。少なくとも、徳川家など旧勢力の代表者や要職にあったものは死罪、旗本はお家取り潰しにしていかなければなりません。革命と言い張るなら、それ以外のやり方では格好など付かないのです。

しかし実際のところ、例えば徳川一族は、松平一族を含め、みな貴族として生き残りました。彼らの地位はその後もずっと守られ続けています。今でも東京の一等地に広大な家屋敷を構え、外部からは簡単に窺い知れない事業内容の会社を経営し、財団法人や社団法人の理事、或いはスポーツの国際委員会などの団体理事など、名誉職を幾つも兼任し、軽井沢の一等地に別荘を持ち、悠々自適の生活を送っています。

確かに、政権の座から徳川一族は下ろされましたが、21世紀の平民が決して手の届かない世界で、手厚い警備の下、堂々と生きています。彼らの周りには当然、人脈、海外コネクションなど、徳川幕府時代から受け継がれてきた無形資産もふんだんにあることでしょう。

徳川一族を存続させた理由は、そうすることが薩長勢力にとっても都合がいいからです。維新後も貴族として存続させたほうが、徳川の親藩だった勢力の不平不満を収め易い。過去にそのようにして行われた政略と計算によって、「勝ち組」は「勝ち組」独自の世界とネットワークを張り巡らしていくわけです。



■武家社会がそのまま続いている現代の日本

資本主義という建前の下、徳川家がどのようにしてカネを稼いで一族の繁栄を築いているのか分かりませんが、明治維新の立役者達が徳川家以上に発展していなければ、勢力のバランスが取れず、その不均衡は必ず衝突を生み出してしまいます。つまり、明治政府の中枢を占めた薩摩と長州の勢力も、その後その地位を守るばかりか、維持発展させているということです。

このように見てみると、日本の支配者はいまだに江戸以前からの武家社会に所属する人々である、と理解することが出来るでしょう。日本は、武家社会の階級がいまだに押さえている国なのです。

例えば、日本経団連がいい例です。日本経団連のメンバーになるということは、商人のトップとして認められ、支配者である武家階級に出入りを許されるということです。

余談かも知れませんが、日本経団連会長の代名詞となった「財界総理」という言葉は、日本経団連と時の政権との微妙な関係性をうまく表している呼称だなと感心させられます。要するに、日本経団連のメンバーは支配者達の為にお金を集めて上納するサポーターである、だから会長は「財界総理」として物申す、と聞こえてくるわけです。

日本経団連の会員企業を見てみると、明治以前からの支配階級の一員であるか、もしくは支配階級の許に出入りしていた人物が興した会社ばかりです。ここしばらくの間に、ソフトバンクや楽天、ライブドアなどIT関連企業〔※情報技術 Information Technology(IT)〕が相次いで会員に加えられもしましたが、ちょっとした新参者では先ず、余程成功を収めていないと経団連のメンバーにはなれないわけです。

ライブドアは、有価証券虚偽記載が発覚した後、日本経団連から無期限活動自粛の処分を受けました。また同様に、介護保険の水増し請求問題が発覚したグッドウィル・グループは、除名処分を下されています。当り前の処分かも知れませんが、新参者には厳しく、元からの会員企業へは甘さが余りにも際立っているのではないでしょうか。

例えば、戦後最大の疑獄であるロッキード事件の丸紅にお咎めが下ったと言う話は聞いたことがありません。また、ODA(政府開発援助)を巡る不祥事やディーゼルエンジンのデータ捏造など、度々不正事件を起こしている三井物産についても、日本経団連が何らかのアクションを取った事実は一度もないのです。

ライブドアやグッドウィル・グループが悪質なルール違反を犯したことは事実です。しかし、日本経団連も経団連で、その処分は全く恣意(しい)的で御都合主義だと言わなくてはなりません。ここにも支配階級の論理が働いているのです。

とは言え、これはまだほんの序の口です。

≪≪明治の資本主義の黎明期に起こった日本を代表する企業群の成り立ちを見れば分かるように、日本の経済は元々「勝ち組」による莫大な利権の争奪戦として発展してきました。エスタブリッシュメント達はそこに群がり、時に相手を出し抜き、時に談合し、結果的には抱えきれないほどの果実を程好く分け合って、自分達だけの「約束された世界」を作り上げました。

そうした自分達の縄張りに、新参者がやって来ても、自分達の利益になるうちはチヤホヤするでしょうが、一度(ひとたび)不利益を被(こうむ)るとなれば冷たくあしらうのが当然です。≫≫

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