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2012年8月16日木曜日

とんでも終戦記念日

今年の春時分に読んだ本の紹介です。



読後要約引用:
昭和天皇は、戦争責任回避にマッカーサーと裏取引をした。
また、吉田茂は戦後アメリカの一号Poppyに成り下がった売国者。

トマス・コンプトン・パケナム、終戦後の占領期に「ニューズウィーク」東京支局長を務めた一人の民間人。
偶然に、彼が遺した日記を入手した著者は、コンプトン・パケナムが単なる特派員ではなく、宮内省の幹部(松平康昌)を通じて日本の皇室と繋がり、当時公職追放されていた鳩山一郎や岸信介といった後に首相となる大物政治家とも懇意の仲であったことを知ります。
一方で、「ニューズウィーク」本社の外信部長の役にあったハリー・カーン(後にダグラス・グラマン事件において贈賄計画に関わったコンサルタントとして名前が挙がることになる人物)を通じてワシントンとも繋がり、トルーマン大統領の特使として訪日し、後にアイゼンハワー政権の国務長官となるジョン・フォレスター・ダレスの情報源になっていたことも明らかになります。
パケナムの日記には、来日したダレスを鳩山と引き合わせた件りなどが生々しく記されています。
終戦翌年の1946年に東京に赴任したパケナムは、マッカーサーの占領政策を批判する記事を書いたことでGHQに睨まれて一旦は日本から追放(再入国拒否)されますが、1948年末にはワシントンの後ろ盾を受けて東京に再赴任します。
ちょうど冷戦が始まるという国際情勢の変化の中、米国の占領政策が方針変更され始めた時期と重なります。
マッカーサー解任から講和条約締結・独立といった一連の流れの中で、パケナムは裏ルートでの日米政界の橋渡し役を務めていきます。

そんなパケナムの出自が、日本生まれの英国人であったというのがまた面白いところです。
パケナム家は元はアイルランドの貴族の系統。
コンプトン・パケナム自身は、神戸の在日英国人商人家庭に生まれ、第一次大戦では英国軍に従軍し、米国に移民して大学の教員や音楽ライターの職を経て、「ニューズウィーク」のジャーナリストとして再来日を果たします。
生涯に四度の結婚をし、最後の妻は日本人のオペラ歌手。
伯父は、日露戦争で英国の幹線武官として司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する「ペケナム大佐」であることも明らかになります。

著者は、日米英の血縁者や文献を隈なく調べ上げて、コンプトン・パケナムの数奇な人生を紐解いていきます。
1957年にパケナムが急死した際に「ニューズウィーク」誌に掲載された彼の死亡記事に記されたプロフィールにも事実と異なっている点が多くあることが明らかになります。
終章で、多磨霊園に眠るパケナムのもとを著者が訪れる件りには感慨が溢れていて感動的です。

それにしても、このような名もなき民間人が、日本の戦後の行く末を左右する占領期の政策決定に深く関わっていたという事実には、日本人としてやや複雑な思いも湧いてきます。
パケナムのような数奇なプロフィールを持つ人物がもしいなかったとしたら、日本の戦後はまた違ったものになっていたのでしょうか。

さらに言えば自分のような戦後世代からするとついつい軽視しがちな占領期という期間が、戦後日本を形作る上で決定的な時代であったことを改めて思い知らされます。
在日米軍や沖縄の問題を考えれば、この時代に為された政策決定が、今日的な問題に繋がっていることを否応なく意識させられます。
公職追放解除も、朝鮮戦争も、講和条約も、日米安保も、けっして必然ではなかった。
何か一つ歯車が狂っていたら、まったく異なる戦後日本が実在していたのかもしれません。

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