誰もがマクドナルドを食べ、誰もがコカコーラを飲む。これらは世界中どこでも同じ味で、微細に何かが違うだけだ。
着ている物も統一されていく。ビジネスマンは世界中どこでも背広を着るし、女性は民族衣装を捨ててTシャツとジーンズを身につける。
コンピュータも世界中で同じOSを使い、スマートフォンも世界中で同じOSを使う。「同じになる」というのは、便利になるということだ。大量生産できるから、コストがかからない。
そして、この流れが加速していくと、もちろん「言語」もやがては統一されていくことになる。
言語が統一されれば、コスト削減になるし便利だ。便利なら、間違いなくグローバル社会が続いている間は、言語の統一が進行する。自然に、そうなっていく。
2500の言語が「消滅寸前言語」になっている
少数民族の言語は少しずつ、しかし確実に絶滅していって話者の多い言語に吸収される。
国の中でたくさんの言語がある場合、まずは国の中でひとつの言語に統一され、やがてはその国も話者の多い世界言語に吸収されていくことになる。
ユネスコでは現在、2500の言語が「消滅寸前言語」になっていると報告している。
日本でも昔はアイヌ語、八丈語、与那国語とあったが、今はみんな「日本語」を話している。方言は残っているが、方言も標準語に取って代わられていく。
標準語もまた変化していく。標準語の変化はやはり国際語(英語)の影響を受ける。外国語が混ざり、置き換えられ、取り込まれていくことになる。
世代が変わるごとにそうなる。なぜなら、それが便利だからである。
その中で、今の日本語が衰退することもあるだろう。国の衰退は言語の衰退でもあるからだ。
日本語は日本人しか話さないのだから、日本が衰退すれば、日本語も衰退するのは、ある意味当然のことだ。
グローバル社会なのだから、日本語もグローバルな流れに沿って変質をする。
これは、日本だけではなく、世界で起きていることだ。
ヨーロッパでもローカルな言語が消失していることが報告されているし、その流れを敢えて止めたり逆行したりする人も少ない。
インドでもそうだし、インドネシアでもそうだ。ローカルな言語が、どんどん国の定めた「公用語」に収斂されていき、少数民族の言語が絶滅していく過程にある。
アイヌの女性。すでにアイヌ語は絶滅寸前言語になってしまっている。 誰も知らない間に、アイヌ文化も、アイヌ言語も消えて行く。 |
バイリンガルになるというのは「面倒」なことだ
インドネシアに注目してみたい。インドネシアは島がたくさん集まってひとつの国家になった島嶼国家であり、当然だが島ごとに民族も言語も文化も伝統も、まるで違っている。
インドネシアでは、約300種類の民族言語があると言われている。
しかし、スカルノ大統領は「ひとつの国家、ひとつの言語」を提唱し、それまでインドネシアではマイナーな言語であったマレー語を国語として定め、国民に教育した。
マレー語を選んだ理由は、この言語が学ぶのにやさしいからである。インドネシアを名実共に代表するジャワ族さえマレー語を受け入れた。
他の民族もそれに倣ってマレー語を覚え、インドネシアはいつしかスカルノが夢見た「ひとつの国家、ひとつの言語」を成就してしまった。
しかし、今でもジャワ族は家庭では当然のようにジャワ語を話している。スンダ族は、家族内ではスンダ語を話す。
他の民族も言うまでもなく、皆それぞれの種族の言葉を話している。
大多数のインドネシア人にとって、マレー語=インドネシア語は「外国語」だ。いくら公用語がマレー語になったとは言っても、父母や祖父母が話す言語を簡単に捨てられない。
しかし、やはり違う言語が入り交じってバイリンガルになるというのは「面倒」なことだ。
人々は少数言語を少しずつ捨て始め、完全に捨てなくても言語をちゃんぽんにして使い、やがて公用語であるマレー語しか話さなくなっていくのだ。
インドネシアの言語をマレー語で統一したスカルノ大統領。 インドネシアの統一はここから始まった。 |
何もかも違うものを一つにしてしまったインドネシア
私は最初、300種類の言語とは言っても、これは方言のようなものだと思っていた。
ジャワ語もスンダ語もインドネシア語とそんなに変わらないもので、若干語尾が違ったり、アクセントが違ったりするようなものなのだろうと根拠もなく思っていた。
しかし、実は最近そうではないことに気がついた。代表的なジャワ語にしても、マレー語とは語順も違えば、独自の文字さえある。
マレー語が分かっていてもジャワ語はまったく別の言語として考えなければ理解することができない。
スンダ語も然り、発音が違うどころか、インドネシア語とはまったく単語も違えば、インドネシア語にはない発音さえあるという。
「テリマカシ(ありがとう)」はスンダ語では「ハトゥル ヌフン」、「マアフ(すみません)」は「ハプントゥン」、「ブラパ・ハルガニャ?(いくらですか?)」は「サバラハ・パガオスナ」と、基本的なところでさえ、完全に違う。
ニュアンスのよく似た単語や語順も多いが、だからと言ってそれが簡単なわけがない。まったく別言語の別単語と考えたほうがいいくらいである。
一つの国であっても、これほどまで言葉が違うとすれば、インドネシアが年がら年中、独立闘争に悩まされているのも理解できる。
いくら「ヌガラ・サトゥ(一つの国家)」と言っても、言語が違い、文化が違い、生活が違い、考え方が違い、住んでいる場所も違う。
何もかも違うものを一つにしてしまったところに、インドネシアの面白さと複雑さがある。
「何かの言語」に統一されていくのは間違いない
今はそうであっても、永遠にそうだとは言えない。やはり、グローバル社会は全世界を共通化させるのだ。
だから、インドネシアのそれぞれの言語も話者が少ないところから淘汰されてしまい、やがてマレー語だけになってしまうことは想像できる。
そして、そのマレー語もまた英語のような国際語に飲み込まれて、どんどん姿を変えていくことになるだろう。
国際語である英語もまた全世界の言葉を吸収する中で姿を変えて行かざるを得ないだろう。
互いに互いを影響し合いながら、辿る道の先には「統一された言語」がある。現在はアメリカが全世界をコントロールしている超大国だから、英語が国際語として全世界を席巻している。
しかし、もちろん最終的にアメリカが勝者となるのかどうかは誰も分からないので、英語が絶対唯一の言語になるのかどうかも定かではない。
分からないが、グローバル社会が続くのであれば、「何かの言語」に統一されていくのは間違いない。
しかし、本当にそんな世界がいいのかどうかは疑問だ。
いつも考えるのだが、食べ物も、飲み物も、着る物も、文化も、伝統も、そして言語も、すべて統一されてしまったら、人間社会は面白くなるのだろうか。
確かに便利にはなる。世界が「ひとつの言語」しかなかったら、世界中どこに言ってもきちんと話ができるし、ビジネスも交流も進むだろう。
しかし、世界中どこに言っても景色も、文化も、言語も、何も目新しいものがなかったら、さぞかし退屈な世の中になるに違いない。
現に今は世界のどこの「大都会」に行っても、街の光景は同じようなものだ。
東京も、ニューヨークも、バンコクも、ジャカルタも、ビジネス街は大してどこも変わらないし、ビルの中に入ってしまえば、なおさらその感が強くなる。個性など、欠片もない。
最終的には言語も個性を失っていくのだろう。自然に、人間は個性を失っていく。
この都市の夜景を見て、即座にどこの国の夜景か分かるだろうか。 この夜景は「タイ・バンコク」の夜景だ。 分からないのも当然だ。個性などないのだから。 |
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