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2010年8月25日水曜日

私の恩師・Phillip Arthur Bayly the Mentor


今回も、アメリカの模型飛行機キット・メーカーの代理権を、Philの助力で成立に至りました。



日本駐留時は、府中の第五空軍(極東アジア本部・司令部)基地勤務の情報・戦略将校、B-52に乗り共産圏をCIAと共同で上空から偵察、出航は横田基地。 ある晩、横田で模型を飛ばし、自宅(関東村)帰り、突然の勤務招集があり、フライトバッグを持ち韓国・オーサン基地に飛ぶと出勤してました。 当時、高校卒業后空軍大学校は設立されてなく、海軍大学校に行き後即将校に成る。モノに対する戦略思考が得意で、根っからの飛行機野郎でした。コンバットは、得意中の得意。(この写真は、F/F Hansen T-Bird/マッコイ 60、サーマルに持っていかれた由)

フロリダ・クリアーウォーター出身、ベトナムでUFOのパイロットと鼻先接近との噂有り。ジョージ・ペパード似。

1975年、アメリカ到着後 放浪の旅開始翌年にアラバマ州バーミングハムのMaxwell空軍基地デ再会、本人はセニアー・オフィサー(大佐)に成るべく訓連校に入学。

1987年大佐で退役、即軍需産業のベル・ハニーウエルに天下り偵察機機開発に従事、その専用機
SR-71やB-57Fに乗る。 すごいキャリアーの持ち主です。その退役前に、訪ねたら、ペンタゴン総省に勤務し、飛行機に乗れないし、デスク・ワークばかりで、ハンコ押しとサインばかりで辟易していました。
日本では、フットボールとバスケットボール、本国の自宅では、ピンポン室を持ち、せがれ相手にやっていました。

パイロットは、出動待機中、反射神経を養うためとの本人の言。せがれのJimの方が強かったでした。 

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